背景を知ると5倍楽しめる『トスカーナの幸せレシピ』〜ありのまま向き合うということ〜
客観的に人や事実を見つめるのは意外と難しいものです。他人の才能、個性、功績などを聞いた時に「若いのに」、「ご高齢なのに」、「男性だから」「女性だから」などと様々な情報が紐づいてしまう事があります。
「ありのまま」を見つめるのは難しい
客観的に人や事実を見つめるのは意外と 難しいものです。他人の才能、個性、功績などを聞いた時に「若いのに」、「ご高齢なのに」、「男性だから」「女性だから」などと様々な情報が紐づいてしまう事があります。
多くの場合においては、物事を理解する上で必要な紐付けなのかもしれません。出来事や事実の背景を知っているからこその発言とも取れますが、一方で実は単なるイメージや固定観念で付いてしまっているという場合も多いのではないでしょうか?
障害と聞くと、その言葉から「障害者には何かしらできない事がある」とイメージする人が多いでしょう。そのため、障害を持った人が素晴らしい才能を持っていたり、素晴らしい功績を収めたりすると、「障害があるから」や「障害なのに」といった障害と才能を結びつけて捉えられてしまう事が多々あります。ですが、ここの紐付けは本当に必要な紐付けなのでしょうか?
『トスカーナの幸せレシピ』では、障害と才能を切り離し、障害も、才能も、そのキャラクターに与えられた1つの個性として描かれています。が、これは単に理想論として、描かれた映画というわけではなく、実はイタリアの史実や障害に対する考え方が如実に反映されているのです。
今回の記事では、本作の背景となっている、イタリアでの障害に対する考え方、歴史的大転換やインクルーシブ教育、さらに日本との違いについて詳解していきます!
あらすじ
海外の超一流店で料理の腕を磨き、開業したレストランも成功させた人気シ ェフのアルトゥーロ。しかし、共同経営者に店の権利を奪われたことで暴力事件を起こし、順風満帆だった人生から転落。地位も名誉も信頼も失った彼は、社会奉仕活動を命じられ、自立支援施設「サン・ドナート園」でアスペルガー症候群の若者たちに料理を教えることになった。 無邪気な生徒たちと、少々荒っぽい気質の料理人の間には、初日からギクシャクした空気が流れる。だがそんな生徒のなかに、ほんの少し味見をしただけで食材やスパイスを完璧に言い当てられる「絶対味覚」を持つ天才青年グイドがいた。祖父母に育てられたグイドが料理人として自立できれば、家族も安心するだろうと考えた施設で働く自立支援者のアンナの後押しもあり、グイドは「若手料理人コンテスト」へ出場することになった。アルトゥーロを運転手にして、グイドは祖父母のオンボロ自動車に乗り込み、コンテストが開催されるトスカーナまでの奇妙な二人旅が始まる。「コンテストで優勝すれば、賞金がもらえて、車を買えて、恋人ができる!」とハイテンションなグイドに対し、運転を任されたアルトゥーロは道中ずっと同じ曲をエンドレスで聴かされたり、ホテルの部屋は殺虫剤の臭いがキツいからと車中泊を強いられたり、天真爛漫だがこだわりの強いグイドのペースにすっかり巻き込まれてしまうのだった...。
道中トラブルに見舞われながらも何とかトスカーナに到着し、多くの人々が注目するなか、いよいよ3日間にわたる料理バトルがスタート。一次予選はグイドお得意の「試食による材料当て」。二次予選は「課題料理の調理」。これらを勝ち抜いた2名だけが決勝戦に臨むことができるのだ。才 能のすべてをかけた大一番に挑むグイドだったが、ちょうど時を同じくしてアルトゥーロ自身にも再起をかけた大きな仕事が舞い込み、コンテストの途中で帰らざるをえない事態に陥る。今や師弟関係以上の絆で結ばれたアルトゥーロとグイド。果たして二人の“夢”は叶えることができるのか......。
何が違うの?日本とイタリア
『トスカーナの幸せレシピ』では、アスペルガーの障害も、料理の才能も、グイドに与えられた単なる個性であり、「障害を持っているから」と特別扱いされることはありません。
その描写の背景には、イタリアの障害者支援に対する考え方や環境が影響していると言えます。イタリアでの障害者支援の取り組みは、日本とは異なっています。
イタリアにはバザーリア法という法律によって精神病院や特別支援学校がほぼ存在せず、障害の有無関係なく生徒が共に教育を受けるインクルーシブ教育が推進されています。